walking 旧中山道を歩く:板橋宿からとげぬき地蔵、六義園

9月11日電車で板橋本町駅まで行き、ウォーキング開始。今回の行程は、旧中山道入口から縁切り榎、板橋、仲宿脇本陣跡の碑、遍照寺馬頭観音、平尾宿脇本陣跡の碑、東光寺、近藤勇供養塔、庚申塚・猿田彦神社、とげぬき地蔵、六義園、全行程6.5km歩く。以下詳細を述べる。

板橋宿:江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。中山道69次のうち日本橋から数えて1番目の宿場。同時に川越街道の起点でもある。東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、奥州・日光街道の千住宿と並び、江戸四宿の一つとして栄えた。板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上宿、仲宿、平尾宿に分かれ、上宿と仲宿の境目は地名の由来の「板橋」が石神井川にかかっている。江戸時代には、日本橋が各主要街道の起点であったが、実際は、上記の4宿が機能していた。これらの宿場には、茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠も多くあり、旅人のみならず、見送り人や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども多くあり、たいそうな賑わいを見せていた。板橋宿には150人もの飯盛女を置くことが認められていた。日本橋寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ねていた。幕末の戊辰戦争の時の官軍はここに停止したが、そのころには中山道の重要性は薄れ、板橋遊郭へと変貌していった。遊郭としての賑わいは、太平洋戦争中まで続いた。

縁切榎:街道の目印として植えられた樹齢数百年の榎の大木。現在は、場所は元あった場所から対面に移動し、大木ではなくなっている。嫁入り、婿入りの行列がその榎の下を通ると必ず不縁になると信じられていた不吉の名所であったが、自ら離縁することが許されなかった封建時代の女性にとっては頼るべきものであり、陰に陽に信仰を集めた。縁切りを願うお札をみたら、「今の夫が早く死んでくれたら、〇〇と一緒になれる」というような身勝手なものもあった。冷笑せずにはいられなかった。一緒に行った人の半分は、離縁されたくないのか近づかなかった者もいた。これも面白かった。徳川家に降嫁する五十宮、楽宮、和宮の一行はここを避け、板橋宿に入ったという。

近藤勇の供養塔:鳥羽伏見の戦いで敗れ、京都から敗走してきた新撰組は紆余曲折ののち流山にたどり着く。ここで軍勢を立て直すつもりであったが、新政府軍に嗅ぎつかれ、あっという間に本陣を囲まれてしまう。この時に本陣にいたのは、局長の近藤勇、副長の土方歳三の他少数のみ。近藤勇は、潔く自刃しようとするが土方が止めた。結局「幕臣 大久保大和」として新政府軍に投降した。そして、新政府軍の本営があった板橋宿に連行され、1868年4月25日斬首され、その首は京の三条河原にさらされた。胴体はこの地に埋葬されたと言われている。新撰組の生き残り組の永倉新八らが尽力し、供養塔を立てた。

とげぬき地蔵:由来…江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げに従い、地蔵の姿を印した紙1万枚を川に流すと妻の病が回復した。これがこの寺配布している「御影」の始まりである。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだところ、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。

六義園:六義園は、徳川五代将軍綱吉の信頼の厚かった川越藩主・柳沢吉保が自らの下屋敷として造営した大名庭園である。明治の初年には、三井財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入し、庭園を整備し、周辺を赤レンガの塀で囲った。そのあと、関東大震災や東京大空襲の被害を受けることなく今日に至っている。六義園は躑躅の花が特に有名である。枝垂桜、紅葉も有名で、日本庭園とにて名高い。自由時間1時間、庭園の中を歩き回り、初秋を味わった。

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