甲州街道を歩く 甲斐大和から石和

10月15日(月)曇天の中東久留米を6時58分の電車に乗り、武蔵野線、中央線を乗り継ぎ、甲斐大和駅に向かった。甲斐大和駅に着いたのは9時8分であった。今日の甲府盆地は少し寒かった。最初に駅前にある武田勝頼の銅像をみた。「武田勝頼は、家臣小山田の裏切りを知り、急遽田野に向かい自刃して果てた。家康は勝頼一族を憐れみ、自刃の地に景徳院を建立し、菩薩を弔った。」その後、鶴瀬関所(鶴瀬の口留番所:入鉄砲に出女を取り締まる)跡を通過し、武田勝頼が落ち延びる際、家臣の跡部大炊介が逃亡した時に土屋惣蔵が討ち取りこの沢で血痕を洗い流したという古跡血洗澤の横を通り、芭蕉句碑のあるとことに行く。「観音の甍見やりつ花の雲」。甲州街道を更に進み、柏尾古戦場跡に行き、近藤勇像を観る。[甲陽鎮撫隊:当初近藤は大善寺を本陣と考えたが、武田家所縁の名刹を血で汚しては非礼とし、柏尾山に橋頭堡を築いた。慶応4年(1868年)3月6日昼頃戦闘が開始した。近藤は白鉢巻きに鎖帷子を着用し、三尺八寸の宗貞の太刀で奮戦したが、向かい風が強く、官軍の硝煙で一寸先が見えない状況であった。勝敗は1時間余りで決した。剣一筋の新撰組は近代装備の官軍に歯が立たず、総崩れとなり、八王子まで後退し、解散した。近藤は流山で官軍に捕らわれ、板橋で斬首、首級は塩漬けにされ、京で晒された。土方は、会津、宮古、函館と転戦し、五稜郭で戦死、幕末のあだ花は露と消えた。]柏尾の交差点から20号線を離れ、県道38号塩山勝沼線(旧甲州街道)に入った。ワイン民宿を横目で見ながら、勝沼氏館跡に行った。[勝沼氏は信玄の父武田信虎の弟信友の家系で、ご親類衆として武田軍団の一翼を担い、信友はこの地に館を構えた。子の信元は逆心の疑いをかけられ、永禄三年(1560年)に信玄に滅ぼされた。跡地には勝沼氏供養地蔵がある。]ここで昼食をとった。なかなかの眺望で気持ちよくコンビニおにぎりが食べられました。ここまで大分時間を取ってしまったので、大菩薩峠への分岐点である等々力に急ぐことにした。国道411号線は、八王子から奥多摩町を経て、甲府市に至る一般国道である。等々力交差点は歩いてきた県道とぶつかる所である。等々力交差点近くの「皆吉」はほうとうのうまい店だと聞く。今度機会があったら入ってみようと思うほど雰囲気がよかった。更に歩き始め、下栗原交差点近くのトヨタ店で休憩をとる。小雨が降ってきたのと、今日は休みの日なので傘を差さずに座ることができた。一町田中の交差点を左折し、日川橋を渡って石和に向かった。笛吹橋を渡ると「笛吹権三郎」像の所で小休止した。

注:笛吹権三郎は、石和川の洪水で流された母を日夜探し求め、母の好きだった曲をさまよい歩いた。疲労困憊の極みに達し、ついに深みにはまりなくなってしまった。その後、夜になると権三郎の笛の音が河原に響き、いつからか流れを「笛吹川」と呼ぶようになった。

JR中央本線石和温泉駅入口まで来ると足湯があった。少し時間があるので、皆で足湯に浸かった。30000歩近くを歩いた足の疲れがとれ、快適になった。

15時32分の特急「かいじ」に乗り、立川で降り、東久留米に戻り、今日も仲間と反省会をして解散となった。

次回は、石和温泉から甲府を経て、竜王まで歩く予定である。甲州に来たからには次回「ほうとう」を食べたい。

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