甲州街道を歩く 塩崎~日野春

12月10日(月)たちか6時58分の電車にのり、今回の出発点の塩崎駅に向かう。秋津までは西武池袋線、新秋津駅からは武蔵野線、中央線を乗り継いで立川駅に行く。立川駅からはあずさ3号に乗り、甲府まで行き、甲府から塩崎駅までは各駅停車の電車に乗る。予定通り塩崎駅には9時24分に着いた。今日はかなり寒い。

塩崎駅から1818年に建立された光善寺跡を通り、田畑、二十三夜塔を通ると韮崎駅近くきた。韮崎の地名は、長く伸びる七里岩がニラ(韮)のように見え、その先端(崎)に位置しているところを由来としている。韮崎宿は北に信州道(佐久往還)、南に身延道(駿信往還)そして船山河岸を控え、交通の要衝そして廻米等の物資集散地として大いに賑わったという。韮崎駅の近くには、宝塚歌劇団の創始者小林一三生家跡碑があり、そこで小休止した。近くを流れる釜無川は、甲斐と信濃の国境に位置する鋸岳に源を発し、八ヶ岳を源流とする立場川を吸収し、笛吹川と落ち合い、富士川となり駿河灘に注いでいる。途中あった水難供養塔は、昭和34年(1959年)8月14日台風7号の豪雨によって釜無川が氾濫し、これによる犠牲者を供養したものである。この辺一帯にある七里岩は街道の北東に連なる崖で、韮崎から蔦木まで7里の間続いている。太古に富士山ほどの高さがあった八ヶ岳が大噴火し、八ヶ岳泥流と呼ばれる火砕流が一帯に堆積。これを釜無川が浸食したものである。新府城址は七里岩の台上に築城された武田氏最後の城であり、石垣を用いていない。新府城は、1575年武田勝頼は「長篠の戦い」で織田、徳川の前に大敗する。これを機に両軍の甲斐侵攻に備え、天然の要害である七里岩上に新府城を築き、移転した。1582年築城の翌年、頼りにしていた勝頼の弟、仁科盛信が籠城する高遠城が落城すると、もはやこれまでと自ら城に火をかけ、家臣小山田信茂の居城、大月の岩殿城に向けて落ち延びた。従うものは近臣、侍女等を合わせて百余名に過ぎなかった。

穴山三ツ石で早退組と分かれて、牧之原目指して歩き始める。風は冷たかったが心地よかった。釜無川を渡り、日野春駅までは「野猿返し」という急坂を登った。額から汗が噴き出てきた。急坂を登ったため、時間が短縮され、予定より1本前の電車に乗ることができた。電車の中で着替えて、甲府に向かった。甲府に着いてからは特急券をケチって皆で各駅停車の電車に乗り、一杯やりながら戻ることにした。とんだ酒好きおじさん集団だ。今日の歩数は32000歩。

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