対話について

今朝の新聞で、哲学者で京都芸術大学長の鷲田清一氏の「対話の可能性」という文面を見て鳥肌がたったのでここに記しておこと思った。文面の一部は下記である。

人と人の間には、性と性の間には、人と人以外の間には、どれほど声を、身振りを尽くしても、伝わらないことがある。思いとは違うことが伝わってしまうこともある。「対話」は、そのように共通の足場をもたない者のあいだで、たがいに分かりあおうとして試みられる。その時、理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わったとき、「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども、理解し得なくても当たり前だという前提に立てば、「ともにいられる場所」はもう少し開かれる。…対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語り合えば語り合うほど他人と自分との違いがより繊細に分かるようになること、それが対話だ。「分かり合えない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは不可解なものに身を開くことなのだ。…

この論文で確かにと思うことは、人は違うものであり、理解しあえないことを素地に書かれていることだ。いろんな人が関わって何かを創り出すとき、そこには必ず対峙する意見が出てくる。違いは違いとして向かい合うことにより、創り出すものの質が変わる。私は、スポーツや政治の世界に身を置いていたことがあるが、同じを強いるための対話が多く、違いを理解しあい、またそれを尊重しあうような土壌ではなかった。

この論文の一部を知ることにより、これからの自分の指針が見えてきた。

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